タクラマカンの紅玉
アトランティス
PRETEND
黒い招待券


INTRODUCTION
 ある秋の日の,ひさしぶりに空の美しい日であった。閑散とした山の手の
とある坂道をくだりながら,ふと,私がこれまで折にふれて書きつづけてき
た短い物語を集めて小さな本をつくることを思いたった。しかし,そのことを
思いたってから,ずいぶん時がすぎてしまった。コンタックスを肩に,私の
好きな山の手の静かな街を散歩しながら,私の小さな本の装幀やレイアウ
トのことを考えたり,それに印刷する短篇を選んでみたりする日が何ケ月
もつづいた。そのため写真の方はすっかりお留守になってしまって,この
1,2ケ月は,1本のフィルムがまだカメラの中にはいったままというしまつ
である。
 いつか1人の友人に久しぶりに出会ったうれしさのあまりに,その本のこ
とをちよっと話したことがあった。すると友人はひどく面白がって,ぜひその
本をはやく出版したまえとすすめてくれた。けれども,そのあとで友人がつ
けくわえた一言は私をひどくあわてさせた。その友人と私はとあるスタンド・
バァのスツゥルの上にお行儀よくならんで,私が飲めるただひとつのウイス
キィであるそのブラック・アンド・ホワイトのカップを前にしていたわけである
が,友人は何気ない調子で私に言った。
 「君の小説といえば,ずいぶん長い間お目にかからない。<今日の文学>
とか<文芸レビュー>とか<文芸汎論>などという雑誌が出ていた頃から
ずっとだね。あの頃は君と同じで金もなく仕事もないという退屈な時代であ
ったが,おたがいにあれでよく生きていられたものさ。それはそれとして,
その本の題名はぜひ,われらの退屈時代を記念して退屈読本としたまえ。
青い退屈読本というのはどうだろう。ぜひ,それにしたまえよ」たしか退屈
読本という名は,誰かの本の題名であったように思う。その上に青いとい
う形容詞をひとつ加えてみたところで,人はただのイミテイションだと思うに
ちがいない。しかしそれにしても,その友人の言葉には,私には見えない
私の背中を一瞬見せられたような何かがあった。
 ここに集めたいくつかの小さな物語は,すべて<文芸レビュー>と<文
芸汎論>と<VOU>に発表したものばかりである。ということはこれらの
作品が私のためにただの1銭も稼いでくれなかったということを意味して
いる。私が書いた物語は,この他にまだ20篇はあったと思うのであるが,
その大かたは私のファイルからいつのまにか消えてしまっていた。またこの
本をつくるに当って,あまりに実験的な作品はやめてしまい,いわば「散文
で書いたリリック」というようなものばかりを選んだ。私はどちらかといえば,
他人の生活とかそれについての意見などというものにはあまり興味がな
い。たしかにそれは1人の人間にとっては重要なものであることを否定し
はしないが,それは誰もがもっているタオルとか電気洗濯機のようなもの
であって,あらためて注意してみるほどの価値はない。私にとって興味の
あるものといえば,そのようなありふれた人間の頭から生まれてくる,もの
の役にもたたないような空想や思いつきのグロテスクな面白さである。こ
のような思考やビジョンはちよっと見たばかりでは愚にもつかない断片の
アッサンブラァジュといったような印象を私たちにあたえるのであるが,そ
こには天使の翼から抜け落ちた羽毛や妖精の腋毛などがときたままぎれ
こんでいたりするのである。その黄金いろの羽毛や菫いろの1本の腋毛は,
私たちがいつもちがった星の世界に朴の木の葉のように漂っていくことの
できるコバルトいろのあの扉の鍵である。
 しかし,それはそれとして,この私の本のことに話をかえそう。ここに集め
た10篇の物語のうちの最初の2篇は<文芸汎論>に,次の2篇は<文芸
レビュー>に発表したのであって,何れも1930年代の作品であるが,この
本に加えるにあたって全部新仮名づかいに改めた。それから,その他の6
篇は1950年以後VOUに発表したものである。編集にあたって,仮名づかい
のほかはすべて発表当時のまま,すこしも手を加えなかった。面倒くさかっ
たからである。
 最近とくに私にはミザントロォプの傾向が強くなってきたらしい。スタミナが
なくなってきたせいかもしれない。ともあれこれらの小さな物語のひと束を,
私の友情のしるしとして私の友人たちに贈りたいと思う。
K.K.                   

ETIAM
CAPILLUS UNUS
HABET
UNBRAM SUAM


 毎年,猟期が終るころになってから,足もとから鳥が飛び立つように,私は
そそくさと武蔵野に出かけていく。あり合わせの丘や沼で,いわばあり合わ
せの鳥に向かってマルストン銃をひびかせるのだった。
 犬一匹つれないで,しかも口径30番の単発銃で一体どんな獲物があるの
だろうか。むろん聞かれたくない質問のひとつなのである。しかし私は充分
にみたされた猟人の1人であることを自任している。それは私が自分の銃が
持っている性能を理解しているということなのである。それは撃鉄や装弾法
のことではない。銃の相手を選ぶことなのである。相手が悪いときはさっさと
銃を担いでドングリの林を出てしまうことなのである。
 鳥笛を吹き鳴らしながら陽あたりのよい枯れ薄の中に寝ころがって獲物を
待っている一時は,私には甘い好ましい一時なのである。すでに雑草はビィ
ズのように芽吹いていて,その草の根を銃床で現ともなく掘りかえしては鳥
笛を吹きつづけていると,つい自分も小鳥になってしまう。すると鳥達は自分
から銃口へ集まってくる。さもなければこちらから出かけていくばかりだ。
 晴れたある暖かい日であった。私は吉祥寺駅を降りて吉祥寺公園を横切
り雑木林の中にはいっていった。このあたりはまだ昔ながらの武蔵野の野趣
がそのままにのこされている森や林が繁っていて,鳥も兎も非常に豊富な一
角なのである。国木田独歩や大町桂月などの文豪が歩いた武蔵野はどの方
角なのであろうか,しかしこのあたりは茨と蔦が濛々とはびこってとても文人
の散歩には適しそうもない荒さを持っているようだ。けれども地の上に群れて
いる笹の葉や,その上で赤く顫えている茨の実などは菱田春草の絵のように
艶やかに冴えて燦いていた。
 例によって鳥笛を吹き鳴らしながら,私は雑木林の曲がりくねった熊笹の
道をくだっていた。日差しをみるともう正午はとっくに過ぎたらしく,雲の色も
鈍くなっている。そして軽い疲れと空腹がいつか私を無精にさせたらしく,さ
っきから一羽の山鳩と二羽の鶫をみすみす逃がしてしまった。しかしそれに
しても10時に吉祥寺駅で下車して,2つ3つ林や森を越えてこの雑木林には
いったわけであるが、すくなくとも3時間はこの雑木林の中を彷徨っていたわ
けである。けれども雑木林はますます深くなっていくばかりで,白菜の畑もネ
ギ畑も一向に見あたらないということが私を不審がらせ,そして不安にした。
私の経験によると,武蔵野の雑木林はたいてい20分かせいぜい30分で畑の
中に踏み込んでしまう小さなものである。しかしとにかく腹を満たしてからゆっ
くりこの得体の知れない雑木林を調べてやれということに決心した。
 熊笹の道を下りきるとそこは小さな盆地になっていた。その盆地の中程に
約10畳程の楢や櫟などに囲まれた空地ができていて,美しい芝生が天然の
食卓を提供していた。私は茨と蔦を踏み分けてその柔らかな芝生の上に銃
と獲物を置くと,いきなり帽子を脱いで仰向けに寝ころがって,早春の眼に沁
みるような青い空を見た。頬白がこの危険のない猟師の周囲でしんしんと啼
きだした。私はこの小さなみすぼらしい牧歌詩人の小鳥を決して害したことが
ない。それはこの小鳥の歌声が何ともいえず単純で好ましいばかりでなく,そ
の人懐っこい性質は,山で1日を過ごしたことのある者だったら誰もが肯くこと
であろう。ともあれ私はこの,世にも有難い食卓でチィズと卵のサンドイッチを
頬張りながら,ようやく元気を回復した。けれどもルックザックを着け,銃をと
って立ちあがったとき,私はあやうく叫ぶところだった。というのは私から数歩
離れた雑草の中に白孔雀の無惨な死骸が横たわっていたからである。しかも
その誇らかな首は噛みとられていて,美しい羽根が忘れられた日傘のように
茨の上に拡がっているのだった。こうした惨酷なやり口はいつも犬や猫の仕
業ではなくもっと兇暴な奴である。それは胸の一撃を一眼見ただけでも充分
に判断されるもので多分狐の仕業に違いないと私は断言してもよい。しかし
それにしても,この白孔雀はどこから運ばれてきたものであろうか。
 ともあれ私はその盆地を横切って櫟林の中を爪先上りに登って行った。そ
れははやくこの奇怪な雑木林から出てしまうことと,あわよくば白孔雀の出所
を探しだしてみよう,という新しい欲望が含まれていた。しかしその願いは決
して無駄な願いには終らなかった。というのは櫟の林を登って丘づたいに暫
く行くと,ちようど丘の真下を1台の白塗りの電車が静かに音もなく走って行く
のが見えたからであった。しかもこの白塗りの電車は回教徒の寺院に聳えて
いるような球形の2つの小さな塔を前後に持っていて,その塔の先端がポォル
の役目をしているらしくスパァクの青い閃光を夕暮れに近い衰えた光線の中
で鮮やかに見ることができた。それから約5分間も歩いたであろうか,欝蒼と
繁った椿の林から1歩踏み出したとき,いきなり巨大な球が中空に揺れてい
るのを見て私は思わずマルストン銃の曳金に指をかけて立ちどまってしまっ
た。それは夕日に燦然と,計り知ることのできない巨大な真珠のように燦いて
いた。けれども,この奇蹟の真珠は一個ではなかった。太陽を囲繞する星の
ように大小数十の真珠がその最大の真珠の遠近に位置して燦いていた。し
かしそれは単なる輝やかしい球ではなかった。それはあの「アラビアンナイト」
や「ルバイヤット」の挿絵にみるようなアラビア風の一群の塔であった。さっき
の白塗りの電車がそれらの塔を縫って静かに音もなく走っていた。私はこの
不思議な街が武蔵野の一隅にいつごろ建設されたのか不幸にして知らない。
しかも今ではその街がどの位置にあるのかさえも知らないというより他に術
がない。なぜなら,私はその後,幾度かマルストン銃を担って吉祥寺駅から
出発したのであったが,それとおぼしい雑木林も,もちろんあの美しい芝生の
食卓も2度と再び見ることができなかった。かてて加えて,私にはあの「オディ
セイ」の作者や「阿房宮」の作者のような卓越した表現力もない。ただ黄昏れ
ていく武蔵野の斜陽の中に奇蹟の真珠のように照り映えていた一群の塔を
前にして,今一歩進んで調べることなしに,引返してきた私の「あすありと思う
心」を果てしもなく悔いるより他にしかたがない。
 私は櫟林を馳せ下りてどこをどう行ったものか青梅街道の土煙の中を歩い
ていた。そして折りよく通りかかったトラクタァの野菜の上に身を横たえて,ふ
と過ぎてきた方角をみたとき私は思わず上半身を起こしたのであったが,宵
闇の武蔵野の空には上弦の月が寒々とかかっているばかりであった。こうし
て私は野菜運搬車の新鮮な匂いの中でいつかうとうとと眠ってしまった。そし
て新宿の雑踏の中で眼を覚したのは未だ午後7時前でしかなかった。


 秋が深くなるにつれて,窓を埋めていたポプラァの葉の茂みが黄色くなり,
斑になり,そして落ちていった。白い鳥籠のようなポプラァの木の華車な骨
格の向うに美しい空と雲が現われた。それは彼のスランプとは無関係に,
それは颯爽とした秋の美しい空と雲であった。静かな遠景が,シルエットに
なって夕焼けの貝殻の中に落ちてしまうと,夜がくる。星と家家の灯とがい
り混って,夜の空を2倍にみせる。それは早朝の薄明の頃まで続くのだ。
彼はこうした秋のプラトニックな情景にむかって煙草を喫った。肖像のよう
に身じろぎもせずに,彼はシガレットホルダァをくわえ時計の鳴るのを感じ
ていたりする。<時計が鳴る>そしてそれきりだった。
 彼はまたあるときは煙草を喫い,しかたなしに本を読む。それはいろんな
種類の本であった。もうすっかり視力が疲れてしまっても,彼は最初と同じ
ポォズとスピィドでペェジをめくった。
この怠惰な感じが何かしら彼の気分を不純にすることがある。すると彼は
あわてて熱心に読むふりをする。こうして自分を瞞着するのだ。そして彼は
大変に巧く瞞されてしまった何物かに,煙草の煙を吹きかける。こうして終
いには開いた本の上でマニキュアを始めたりするのである。
 晴れた日の午後,彼はいつも樅の林をめぐって散歩した。彼はいい加減
なステッキを振り,いい加減なジャケツを着て,白菜の畑のそばを散歩する。
馬鈴薯の山が,不意に彼の行手をふさいでいた。彼は馬鈴薯についてあ
まり興味がないから,雑草の中へ足を踏み込んで通り過ぎていく。彼は遠
近のバンガロォ風の住宅の白い壁や,色とりどりの貯水タンクの鉄塔を,
ふりかえったときに見る。それからまた煙草をくわえて歩いていく。
 「人生とは何ぞや」そういう言葉の側を,苦笑して通り過ぎるすべての人
物のように,彼もまたすべてが無意味だった。
 しかし習慣がいつの間にか彼の散歩の道すじをきめてしまった。彼は昨日
も一昨日も同じ時刻に同じ場所を通って帰ってきたことを思い出す。否もう
2カ月というものは電気仕掛のペデストリヤンそのままなんだ。彼はそして必
ずその場所にくるとポォの「ランダァ屋敷」を思い出し,木犀のある長い石垣
の処ではホフマンの「スキュデリ嬢」をちよっと思う。それから国道でルッソォ
の絵とヴァイオリンのことを考える。それから坂を下りながら右手に見えてく
る耕地整地の記念碑にアクロポリスとオベリスクとクライスラァ・ビルを殆ど
同時に思い出すのだ。彼はそうした理由のない制限に対して理由のない反
抗を開始する。彼は意味ない廻り道や凸凹の廃道の方へ突進する。そして
茨や草の実に悩みながら,全く憂鬱になって白菜の畑の中へ飛び出してし
まうことになる。しかしそれはあまり永続きがしない。第一彼のズボンと肉体
が悲鳴をあげるからだ。そしてやがていつかは,彼はまた以前の道を選ぶ。
最初の習慣のように同じ時刻に小さな石橋を渡り,そこで女郎草の叢にサッ
とステッキをお見舞する。それから白菜の畑を過ぎて国道に出る。国道を5
分間ほどいくと右に折れる小さな坂道がある。そこから樅の林の裏側に出
る。八幡太郎義家の社の下を通って玄関に到着する。これが彼の散歩のコ
ォスなのだ。この知りつくした道すじが彼の視覚を開放するのだった。彼は
ステッキを握り,白い柵を越してある住宅の庭の美しい芝生と芝生の上のブ
ランコ台を見ていく。秋の薔薇がもう跡形もなく過ぎてしまったことを他の家
の生籬に感じる。それからマンドリンの鳴る家のすじ向いのピアノ。そしてそ
れらの近代的な生活圏を通り過ぎると石橋がくる。やや遠方の小松林。小
松林の上の巻雲。彼はステッキを上げて女郎花の叢を叩きつける。白菜の
林の方へ曲るのだ。白菜の長い行列が終るあたりにくると,もうあたりの情
景は全く寂寥としている。彼はトマトや石塊が転々としている耕作道路の上
に鋭くめりこんだ野菜車の轍を興味もなく見つつ歩いていくのだ。黒い道路
の上のトマトや石塊の長い長い投影。それらのほのかなハイライト。雑木林
の下の薄暗い坂道。その上に茂っている雑草が微風にひえびえとなびいて
いる。そこから灰色に光る沼が見える。水門が鳴っている。貝殻をかぞえる
ような蟲の鳴き声。そして竹薮が空の方でざわめいているのだった。彼は煙
草がにがくなってくる。水門の上を渡って,切り開いた坂を登る。それは全く
草土社風の道だ。坂を登りきると,また一群のバンガロォ風の住宅がある。
酒屋のギャルソンたちが丘から丘へ,自転車のタイヤァのリボンで,日に幾
度となくこれらの建築をチョコレェトのようにつなぐのだ。テニスコォトをめぐ
るコスモスの層雲。棕櫚の林にはもう夜が匂っている。彼はそこで国道に出
る。5分間は砂煙のあがる不愉快な道だ。彼はまた雑草で一杯になった小
さな道へ降りていく。樅の林は黒い塊でしかなくなっている。振り返ると丘の
上に星が光っている。彼はステッキを振ってスピィドを加える。肥料の匂い
が哀しく伝わってくる。彼は意味なく顔をあげる。しかしそれだけなのだ。彼
は彼の才能で観察し,考えることの可能なものは何一つのこすことなく観察
し考えつくしてしまったのだ。彼は顔をあげ,そして暗くなった木立や遠景を
ひとわたり見ると頭をさげた。彼は歩いていく。すべての,なすべき事をなし
終って希臘を出ていく希臘人のように。
 だがそれはほんの瞬間だった。彼は驚いたのだ。彼は樅の林の中をすか
して見る。そして何ものかに命令するような口調で叫んだ。
 「誰です,出て来たまえ!」
すると樅の林の中から女の声が答えた。そして彼の前に1人の女が立って
いた。
 「あなたはどなた? びっくりしましたわ私」
 彼は自分の前に立った女の美しい容貌と繊細な頸を温めている毛皮の柔
軟な感触とブラウンの衣裳を見た
 「僕の方がびっくりしますよ。どうなさったのですか」
 彼は自分の驚きを隠すために,先刻の命令的な口調のままで言った。そ
れは彼の前に立っている美しい婦人と奇妙な調和だった。しかし毛皮の婦
人は,彼の乱暴な口調と彼の滑稽な様子とを比較して,かえって彼を信用
さえしているのだった。
 「あたくし誰かと思って隠れましたのよ。こんなに暗いから怖しかったので
すわ。でも,ほんとうにあなたでよかったわ。ええ,そうよ,もしかと思って」
 「もしかと思って? じゃ僕は誰かに似ていたんだ」
 「いいえ」
 「じゃ僕を何か,悪漢だと思ったんでしょう」
 「馬鹿ねあたくし,ほんとうにそう思ったのかもしれませんわね。それであ
なたが通り過ぎてしまわれるまで隠れてたのですわ」
 「あんな隠れかたじゃ,悪漢はすぐに見つけるでしよう」
 「いいえ。そんな方でないことが直ぐわかったのですわ。でも出るわけに
いかないから待っていたのです。びっくりなさるといけないと思って」
 彼は女との会話に思わず苦笑した。
 「で,どこまでお帰りになるのです?」
 「あそこ,あの丘の上のポプラァの樹のある家ですわ」
 彼は丘の上の一群の住宅とポプラァの梢を見た。それは星の光った空に
かすかなシルエットとなって滲んでいた。
 「あ,僕はさっきあの下を歩いてきたんです」
 彼は彼の胸と殆ど触れあうほどの距離にある女の胸を見た。女の美しい
歯と微笑を見た。彼はいきなり女の肩の上に手を伸ばして唇に唇を持って
いった。それはほんの瞬間だった。彼女は彼の腕の中で,しだいに抵抗す
ることの不利を悟った。それに自分の意志からでなく触れた他人の皮膚の
感覚が一体なんだろう。彼女は彼の腕から静かに逃れたとき彼に言った。
 「ずいぶんひどい方ね」 彼はこの女は憤るといっそう美しいと思った。
 「僕はそう思いません。僕は少し正直すぎただけですよ」
 「まあ図図しい方」
 「何故です。僕は貴女のような美しい婦人に逢ったのは,ほんとうに今が
最初だったからです。僕があなたのような綺麗な婦人にこれから先逢える
かどうかわかりません。僕はそれが怖しかったのです。僕はもうあなたに恋
しているのかもしれないのです。さ,僕を打ってください。僕は無礼を働いた
野蛮人なのです。・・・・・・・・・僕はあなたのその涙が憎悪と侮蔑の涙でしか
ないことがよく解るのです。僕の頬を打ってください。僕は何もしません。僕
は打たれたらまっすぐに僕の家に歩いていきますよ。なぜ打ってくださらな
いんですか」
 「いいえ,あたくし打ちませんの,だってあなたは悪い方じゃないらしいの
ですもの,おあやまりになったんですから・・・・・・・・・」
 「それは,それだけの罪を犯したからです。だのにあなたはそれを罰しな
いんですね」
 「罰しませんわ,そのかわりもしか,あたくしの家の近くまで送って頂けま
せん? 恐しいのですもの」
 彼はあらためて女を見た。そして彼女の意外な言葉の真意を疑った。そ
れはよくあることだった。多分この女は頬打ちよりもいっそう苛酷な方法で
罰するに違いないのだ,と彼は考えた。それが土佐犬の牙の兇暴な一撃で
あってもしかたはない。彼はすっかり諦めて,女と並んで歩き始める。彼の
想像は大体において女の計画と合致していた。牙の一撃が彼女の高い一
声に変ればよかったのだった。彼女の家に隣りあっている警部は彼の冒険
に最も合法的な制裁を与える筈だったからだ。雑木林の下を歩きながら,
彼は礼儀正しかった。彼らは,坂道を静かに登っていく。彼女は彼女の仕
事について話した。彼女はある服装学院の講師だった。話が香水に移ると
彼はいつか読んだ香水の創始者であるイタリィの貴婦人についての詳細な
記憶に自分ながら驚くのだった。彼女はコティの香水のラフなこと,ウビガ
ンはそれに比較して緻密だが趣きのないこと,けっきょくピベだのスイスの
ジモダンのような小さな会社にびっくりするような製品があること,バッキン
ガム宮殿香水やユゼニィ皇后香水の壮麗な薫について彼女は驚くばかり
の精巧な形容を知っているのだった。
 「そうですの,いまにほんとうの香料を使った香水なんてなくなりました。そ
して白檀でも麝香でもないケミカルな匂いばかりが残るのですわね。ドルセ
の新製品なんかみると,ぞっとするほどですわ」
 「何だってみんなそうなのですよ。小説も詩も絵も音楽もなにもかも。ほん
とうに何もかもですね」
 坂を登りきると国道に出る。彼女は彼を呼び止めた。彼女はもうさっきの
計画を放棄していた。彼女は青年にある親しみさえも感じているのだった。
そして気障な,卑怯な態度のように考えられた樅の林の側での青年の後悔
が,真実に彼のパッションに対して彼のデリカシィがする絶望的なプライド
であったことが彼女にははっきりと解ったのだった。
 「お帰りになってくださいません。そして今日のことはすっかりお忘れになっ
てくださいましな。そして思い出さないでくださいませ。それがあなたのなすっ
たことに対する罰ですわ」
 彼は彼の想像がかなり近いものであったこと,そしてその刑罰から赦され
たことをひそかに理解した。彼は帽子をとると,親しみをこめて言った。
 「僕は家に帰ったら,この調子の狂った頭へ1発やるつもりなんです。僕は
僕を軽蔑するよりかその方が楽なんです」
 彼は方向をかえると,振り向くこともなしに雑草の上を下りて行く。何かし
ら不快な気持ちが胸先にこみあげてきた。彼は突然に起った内臓の激痛の
なかで,口一杯にあふれ出る不消化のままの鰯とホォレン草と苦い液体を
吐瀉しながら,雑木林の中ににぶく反響する梟の声をきいて,いつまでも坂
のなかほどの雑草の上に逆さになっていた。


春の日に

 生きた縞馬を僕はまだ見たことがない。それ故生きた縞馬の事のことが気
になって,僕は忘れられないのである。何によらず,一度も見ないこと,しか
もそれについて識っていることは,それは百度みることだ。
 「シャァルロッテンブルクの動物園って,どんなだろうね。どんなに素晴らし
いだろう?」 それは,僕にとって彼の病気が,また始まったことを意味してい
る。辛辣な冗談を僕に思いつかせるのである。 「チゥリッヒの街って,どんな
だろうね。雨の日にはどんなに美しいだろう?」 雲の明るいある日,暖かい
春の太陽がモザイクの上に炎える絨緞を拡げてくれる。とりとめのない理由
で,今日もまた僕は彼のベランダのある部屋で彼に会う。室咲きのプリムラ
ベリスを挟んで,坐っている。爆撃機が1台,気のふれたゲンゴロゥ虫のよう
に,街の1,500メェトルほどの上空を掻き廻していった。彼は立ちあがって,
僕のコップに幾杯目かの珈琲を注ぐ。プリムラベリスの桃色の花々の向うに
彼の顔がみえなくなる。ふいに彼は言うのだ。 「しかしそれにしても,シバの
女王がソロモン王に会った刹那の気持って,どんなだったろうね。どんなだっ
たろう」 彼の病気がまた始まったのである。僕は瘋癲病院のドクトルが患者
達にそうしてやるように,このへんな患者に言ってやる。
 「ごくありふれた,女の好奇心からさね。あの頃はまだ翡翠のライタァもな
かったし,18気筒総ニッケルのロォルスロイスもなかったのだからね」 彼は
不愉快な気分をやっとのことで,シガレッツ・ケェスに追いこむことに成功す
る。僕の方にシガレット・ホルダァを突きだして,冷淡に宣戦を布告するので
ある。 「それにロケット飛行機。アインシュタインのことも忘れちゃいけないよ。
君といったら,なんてエレガンスのない奴だろう!」
 
 春は僕と彼とのためにも,やっぱり美しい季節だった。彼も僕も,おたがい
に美しいアミィをもったと思うことができたのだから。僕も彼も,よいことにつ
け,悪いことにつけ,アミィのことを話すとなると,できる限り優しく,美しく,誇
張しあった。そしておたがいに,それをほんとうだと相手に思いこませること
ができた。という秘密な喜びをもつことができたのだから。彼の話すところに
よると,彼のアミィは18歳で,まだリィドルの下読みをしておく学校の習慣から
抜けきれないで,朝,不意に慌てて机の前に坐りにいったりするのだそうだ。
「で,その美しい君のアミィは,明るくて,敏感で,小説本を読むにも,珈琲を
飲むときのように,その透きとおる羽根のような小指をあげて,しとやかに,
静かにペェジをめくっていく。そしてやっぱり背が高くて,フレンチ・ヒィルが似
合うのだろうね」 「そうなのだ,しかし背はそんなに高くはないのだよ。フラン
スの女のようにね。君は彼女の素晴しい豊かな睫毛についていわなかった
ね。君がもし,彼女の夢みる笛のような声をきいたら,君はどうなるだろう?」
「安心したまえ,僕はどうもなりやしないから。僕は美しい君のアミィの上に,
君の素敵な幸運の上に,投げられた空の新しいボォルのように,倖せな太
陽がいつまでも純潔な空気の中に,顫えているようにと,僕は祈るよ」 翌日
もまた僕と彼とは会った。僕は彼の部屋のドアを開けて這入ろうとしたのだが,
机の上に書物の山を作って彼が熱心に調べ物をしていたらしいので,明日,
また訪ねることにして帰ろうとすると,彼は狼狽てて僕のそばにやってきて,
ぜひ,話すことがあるからいてほしいこと,ちょっと人に頼まれてドクトル・メ
ラヒントの臨終について調べていたのだが,決して急ぐ用ではないことを僕に
繰返しながら,例のプリムラベリスの花々の前にひっぱっていくのである。
「ねえ君。僕は君の美しいアミィに昨夜,街で逢ったのだよ。ほんとうだとも,
間違うなんてことはない。僕はびっくりした。日本人で,あんな風に緑色の似
合う女はいやしないからね。実際に彼女は21歳なのだろうか」 「23歳なんだ」
「信じられないねえ。僕はじっとして聞いていたのだよ。隣のボックスで彼女
たちが話すのを。彼女は僕がそこにいることを知らない。よしんば知っていた
にしても,彼女は僕が君の友達であることを知らない。それが僕には愉快な
のだ。君は彼女の頸飾りが好きなのだろうね。気がつかない筈はないよ。ア
メシストの。不思議だなあ君が知らないなんて,じゃ彼女は,いろいろな宝石
にそれぞれ自分を適合させる素敵な才能とそして沢山の面をもっているんだ
ね。いったい彼女はどんな階級の婦人なのだろう? きかなくてもいいよ。彼
女が君のアミィであること以上の素晴しいことなんかあり得ないのだから」 ど
んなに計画的にそれがたくらまれていても,必要以上の効果をあげはじめる
と,不安になるか,不愉快になるものである。僕は彼の途方もない想像力に
圧倒されそうになる。僕はだんだん憂鬱になってくる。それにもっとよくないこ
とは,この愛すべき友の顔が,どっかしら間がぬけて見えてきたことだ。僕は
いそいで,彼の話の腰を折るより他はないのである。 「しかし君,僕はいい
忘れていたのだが,僕のアミィは眼鏡をかけているのだよ。眼鏡のことは,
君はまだいわなかったようだったけれど」
 
 プラタナスの葉が,ようやく3センチほどの直径になった。僕と彼とは,ある
マティネェの帰り途を,山手の方へ歩いている。彼のボルサリィノの上に,黄
色い蝶が舞ってくる。あるいは,とある屋敷の空に,眼のくらむような白い木
蓮の花が咲いていたりした。僕は彼が,彼のアミィを僕たちのティ・パァティに
招待することを承知しないのが不快になってきた。なぜ,そんなに彼は拒む
のか。しかも,今日のマティネェは,彼のアミィのために僕が席をとっておい
たのである。それなのに彼のアミィが来なかったことについて,彼の説明は
極めて曖昧な,よそよそしいものだと考えるより他にない。僕はいっそ,彼を
嫉妬した方が遥かに楽なのかもしれない。彼は長い間,話しかけないでい
る。灰銀色キャブリオレットとすれ違っても彼は黙っている。これは彼にはあ
り得ないことなのだ。彼が黙ろうというのなら,僕だって500哩でも黙って歩く
つもりになってくる。けれども彼は立ち止まった。何て淋しそうな顔をしている
のだろう。 「今日の事は,僕は心から謝るよ。結局,僕にはどうすることもで
きないのだから。その代わりに,来週の水曜日に,Rまでドライヴをしようよ。
そしてその時こそは,僕のアミィを君は見るんだ。僕のみつけておいたリンカ
ァンは素晴しいクッションをもっている。君はびっくりするよ。そのリンカァンの
上で,僕のアミィと君とが話そうとさえ思えば話すこともできるよ。僕は君に誓
う。僕の友情と名誉にかけて必ず僕のアミィを連れていくことを約束する。だ
から,気を悪くしないでくれ給え。おねがいだから君のアミィも連れてきてくれ
給え」 「あ,そうね。ドライヴをしよう。今日のことは何でもなかったのだ,僕
はもう憤ってやしない。そら,あそこにスペイン風の家がみえるだろう,あれ
が音楽家P氏の家なんだ。そうだあのファサァドは確かに純粋じゃない。日
本の建築家の欠点は,コリントからファン・デル・ロォへに至るまで,どれ一
つとしてその様式の原則を把えることができないことだ。彼らは,表面の絵
画的秩序にとらわれ過ぎている。そして,いい加減に他の様式をつけ加える
ことがフォルムの進化だと思いこんでいるのだね。結局,日本の建築は全部
混血児なんだ」
  
 アクアマリンの空に,白いカンガルゥの雲が出ている。自動車は麦のダン
ダン畑を登っていく。ボンネットの先端のニッケルの天馬が,突然に雲の中
に踊りこむ。彼はマドリガルを口笛で歌っている。 「要するに,おたがいに罪
も恨みもないわけだね。おたがいに5分5分でほんとうに悦しいと僕は思う
ね。僕は心配していたのだよ。もし今日,君が美しいその18歳のアミィを連れ
てきたら,僕は謝るより他はないのだからねえ」 すると彼は晴れやかに笑い
出した。足踏みをする。いきなり僕の手をひっぱって。 「僕は,君のアミィこそ
真物だと信じていたんだ。恋人を見る眼というのは,ある部分,つまり気に入
った部分については微に入り細をウガツのだが,他の残された部分はてん
で解っていないものじゃないかしら。僕は君に矛盾を発見する毎に,君は心
から恋に陥ちているんだと,きめていったんだ」 「僕は君の正確な記憶力に
驚いた。総てが終始一貫しているのだから。僕はそれについて,幾度も罠を
かけて君をためしてみたのだが,君はただの一度も誤らなかった」 「それは
当然のことだよ」 そういって,彼は,1枚の写真を僕の手に握らせた。 「さあ
裏側から話し給え。それが僕のアミィなんだ」 それは,僕も知っている彼の
妹の写真なのだ。彼女は昨年の暮れに亡くなったのだが,彼は彼の妹の趣
味,風彩,容貌のすべてに全く逆のデフォルメェションを克明にしおおせたに
過ぎなかったのである。 「ほんとうに,君の妹さんは美しかったのに惜しいこ
とをしたね」 「ああ。しかしそれにしても,僕たちが3週間の間,おたがいに信
じさせられていたような美しいアミィを持っていたら,どんなに春が素晴しいだ
ろう。どんなに面白かっただろう!」 また彼の病気が始まったのである。


夏のスキャンダル

窓を展くと,空は晴れている。サックコォトを着け終ると,彼は曳き出しからコ
ルト拳銃を内ポケットに移した。
7月の真昼,強い反射の中を,彼は口笛を吹いて行く。「ス・レ・トア・ド・パリ」
のメロディにすこしの狂いもない。
彼は,とある河岸に出る。そこは華やかなストリィトが終る閑散な一角だ。彼
は古風なビルディングの前に立ち寄る。
一目で,そのビルディングが永い間,空屋であったことが解る。入口の扉の
金具や,鉄柵がひどく破損して朽ちているのをみても明瞭だった。
口笛がやむ。彼はいきなりピストルを出して,空の一角に狙いをつけると,
発射した。コルトを内ポケットに入れる。
彼は静かに歩いて行く。ス・レ・トア・ド・パリのメロディが,また彼の口笛とな
って続いていく。街角を2つほど折れると,賑やかなメインストリィトに出る。
彼は珈琲店タンタジィルのテラスに登って行く。1つのテェブルを占める。
さっきまで荘重に豪奢に,空の真珠と燦き渡っていた高空広告の2つの銀色
のアドバルゥンが,いまは全く衰えて,眼界から消えていくのを見やりながら,
彼は満足そうに呼びとめた。
    
「ボォイ。……… レモンスカッシをくれ!」

エメラルドの指環
 ダマスカスの街を出発したナイルン運輸会社のシリア沙漠横断バスは,た
ちまち荒涼とした褐色の砂の世界にはいっていった。
 私はながい間,この瞬間を夢みていた。トラファルガァ・スクェアの石畳の
上を歩きながら,この旅行に必要な最後の買物の包みをかかえた私の頭の
なかに浮びあがっていたシリア沙漠の幻影は,私がいま防砂装置をしたこ
のバスのガラス窓をとおして眺めているそれと,まったく違ったものであった
ことに気がついて,自分の想像力の貧弱さに苦笑しないわけにはいかなか
った。バスは濛々とあがる黄いろい砂煙を遙か後方にたなびかせながら,
時速70キロのスピィドで,いつ果てるとも思われない広漠とした砂の上をバ
グダァドに向かって走りつづけていた。
 195×年6月,私のアジアの生活は,こんな風に始まったのである。その日
の沙漠の空は一かけらの雲もなかった。3時間もたつと,私は沙漠にも土耳
古玉のような空にもあきてしまった。いっそ眠ってしまおうか,それとも,その
つもりで持ってきたベントリィの探偵小説を読もうかと考えながら,ふと顔をあ
げたときに,1人の青年の眼がスモォク・グリィンのサングラスのなかからじっ
と私を見つめているのに気がついた。青年は,私がそれに気づいたとみる
と,人なつこい微笑をうかべ会釈をおくってよこした。彼はたしかに東洋人の
皮膚をもっていたが,スマァトな服装と,その知的な表情が,ヨォロッパのど
こかで幾年かを過ごしたということがひと眼でわかった。やがて,彼は私の隣
のシィトに移ってきた。会話は私がなぜこのバスの苦業などを選んだかという
同情にみちた問いから始まった。
 「僕はこの素晴しいシリア沙漠にちよっと挨拶をしておきたかったのですよ」
と私は答えた。それから話は,このいまいましいバスよりか一足先にバグダ
ァドの街に移っていった。彼は,フランスで医学をおさめた若いドクタァで,こ
れからマシディヤァ病院の外科部で最後の仕上げをしなければならないの
だと話した。その病院はバグダァドでは唯一の大病院であって,彼がそこの
医局員となることは,非常な幸運であるとのことであった。
 「それは素晴しい。僕は単なる旅行者のようなものです。イラク考古学研究
所に友人を訪ねて,少しばかりバビロンの遺跡を見物したり,ムタワッキル
の塔を見たいと思っているのですよ」と言った。すると彼は,ぜひその螺旋形
の塔は見るべきですよと言った。そして,人間の空間感覚の原形というもの
は,古代も現代もあまり変化がないということが人類の未来にたいして倦怠
のようなものを感じさせると言った。それから話は現代美術の方に移ってい
ったが,お互いにそれは専門外の領域で不完全な知識をならべたてたに過
ぎない結果におわったようである。
 バスはながい間,シリア沙漠を横断して延々とつづく油送管に沿って走って
いた。しかしそれもいつか見えなくなってしまった。やがて,私がながい間,ひ
そかに期待していた光景が眼のまえにあらわれてくるのを見た。それは黄金
いろに燦く斜陽の沙漠の壮大な威厳にみちたパノラマだった。おそらくジンギ
スカンもアリグザンダァ大王もそれを見たのだ。私がロイヤル・ダッチ・エアラ
インの航空機の快適なシィトをふりきってこのバスを選んだ理由は,ただこの
沙漠の雄大なスペクタルを見るためであった。
 バスはその華麗な砂金の海を一直線に進んでいた。彗星のように黄金の
尾を後方にながくたなびかせながら。
 そのとき,遙か前方の地平線の上にそれはほとんど点のように,1人の駱
駝に乗ったアラビア人のシルエットがあらわれた。彼は白いタァバンをなびか
せながら,非常なスピィドでたちまち私たちの方に近づいてきた。そして,何
か叫びながら,黒い紐のようなものを私たちのバスの中に巧みに投げ込ん
でいった。それはちようど私の膝をかすめて床の上ににぶい音をたてて落ち
た。取りあげてみると,その黒い先端には,ちようど私の腕時計ほどもある
長方形のエメラルドをつけた指環が結んであった。私はその素晴しいエメラ
ルドとサラセン風の意匠の見事さに感歎しつつ,ふとそれを自分の中指には
めてみた。すると,それはまるで私が誂えた指環のようにぴったりと私の中
指にあった。私はそれを何ということもなく指にはめて,ラッシド・ストリィトを
歩いていった。それはバグダァドのメイン・ストリィトで,近代的な集団住宅や
ホテルがならんでいる賑やかな街区である。1人の男が私の傍によってき
て,いかにも親しそうに会釈しながら,私の前に立った。
 「私はお待ちしていました。ご旅行はいかがでしたか」 と言った。
 「ありがとう,僕はいま着いたばかりです。しかし,それにしても,どうして君
は僕をご存知ですか」 すると,そのアラビア人は,ふと,私の手の方に鋭い
一瞥をくれながら静かに言った。
 「貴方がファイサル家にご関係の方であることはよくわかっています。私が
貴方をご案内しないようなことがありましたならば,それは私のたいへんな落
度になるでしよう。どうぞご遠慮なく私といっしょにおいで下さい」 彼はそうい
ったかと思うと,1台の赤いクライスラァの方へ手をあげた。私はとっさにファ
イサル家というのは,今のイラク国王ファイサル二世と関係があるにちがい
ないと考えた。しかしそれにしても,いったいこれはどういうことなのか。それ
とも,この私が,誰かにそっくりの顔をしているのかもしれない。私はあわて
て,説明した。
 「僕はイラク考古学研究所に属する者です。しかしファイサル国王にはまだ
お眼にかかったことがありませんよ」
 「いや,ご心配にはおよびません。どうぞ」
 そして私はあっというひまもなく,その赤いクライスラァに乗せられてしまっ
た。クライスラァはガジ王通りから西に折れて,ティグリス河を渡り西バグダァ
ド駅をすぎて郊外へ疾走していった。まもなく,競馬場の建物がみえてきた。
いつの間にか車はクヒル川を渡ってしまったにちがいない。
 「この方向はファイサル二世の王宮とは方角がちがうらしいね。いったいこ
れはどういうことなんだ。僕をどうしようというのかね」 私はひそかに,ポケッ
トのブロォニングのありかを確かめながら,これは困ったことになるかもしれ
ないぞと自分に言いきかせた。そのとき,車はいきなり大きなカァブをえがい
てナツメ椰子の林の中へスピィドを落してはいっていった。そして止まった。
そこには非常に装飾的な建物があった。1人の制服を着たボォイがどこから
ともなく現われて,ドアのノブに手をかけていとも丁寧な挨拶をした。
 「ラッシド様,ようこそおいで下さいました」 その男は,ボォイに向かって,
オマァル様はみえているかとたずねた。しかし彼は,ボォイの答えも待たずに
私の腕をとってその建物の方へ歩いていった。
 ドアを開けると,いきなり,強い照明の光りと,ウシュクダラを思わせるよう
な旋律の音楽が流れてきた。ナイト・クラブの華麗な雰囲気というものには,
何か共通の倦怠がつきまとっているものである。このナイト・クラブにもそれ
があった。フロァでは目の大きなシリア美人が純白の衣裳をつけて踊ってい
た。それはどこかパリの踊りと似ていた。音楽がひと頻り高くなった。ラッシド
様とボォイが呼んだその男は,私の耳に顔をよせて,静かに言った。
 「あなたは,そのエメラルドをどうして得られましたか。それは永い間,ファ
イサル王家の宝庫から失われていたものです。この指環のために3人の男
が今でも刑を受けています。そして,その10倍もの人間が不幸に陥ちたので
す。彼らのなかには,いまカズメィンのモスクの前に坐って物乞いをしなけれ
ばならないような者もいます。」
 私はスロォジンのタンブラァをとって,一口飲んだ。私は風のように私のバ
スの窓に近づいてきた1人のアラビア人の黒い髯と白い歯を思い出した
 「この指環は,シリア沙漠で偶然に私のものとなったものです。もしこれがフ
ァイサル王のものであることが証明されたならば,もちろん,ファイサル王に
お返しするつもりですよ」 と言った。そのとき,1人のアラビア人が,荒々しく
ボォイたちの手をふりきって,一直線に私の方に向かってくるのが見えた。ラ
ッシドはすばやくコルトを出してその男に向かって発射した。そのピストルの
反響が,大きく果てしなく建物全体にひろがり,照明が一度に消えた。その暗
黒のなかで,私は私を呼ぶ誰かの声をきいた。その声はしだいにはっきりと
私の耳にはいってきた。
 「ムッシュ,バグダァドに着きましたよ」 それは,私を揺り起している若い医