| 秋が深くなるにつれて,窓を埋めていたポプラァの葉の茂みが黄色くなり, |
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| 斑になり,そして落ちていった。白い鳥籠のようなポプラァの木の華車な骨 |
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| 格の向うに美しい空と雲が現われた。それは彼のスランプとは無関係に, |
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| それは颯爽とした秋の美しい空と雲であった。静かな遠景が,シルエットに |
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| なって夕焼けの貝殻の中に落ちてしまうと,夜がくる。星と家家の灯とがい |
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| り混って,夜の空を2倍にみせる。それは早朝の薄明の頃まで続くのだ。 |
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| 彼はこうした秋のプラトニックな情景にむかって煙草を喫った。肖像のよう |
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| に身じろぎもせずに,彼はシガレットホルダァをくわえ時計の鳴るのを感じ |
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| ていたりする。<時計が鳴る>そしてそれきりだった。 |
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| 彼はまたあるときは煙草を喫い,しかたなしに本を読む。それはいろんな |
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| 種類の本であった。もうすっかり視力が疲れてしまっても,彼は最初と同じ |
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| ポォズとスピィドでペェジをめくった。 |
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| この怠惰な感じが何かしら彼の気分を不純にすることがある。すると彼は |
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| あわてて熱心に読むふりをする。こうして自分を瞞着するのだ。そして彼は |
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| 大変に巧く瞞されてしまった何物かに,煙草の煙を吹きかける。こうして終 |
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| いには開いた本の上でマニキュアを始めたりするのである。 |
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| 晴れた日の午後,彼はいつも樅の林をめぐって散歩した。彼はいい加減 |
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| なステッキを振り,いい加減なジャケツを着て,白菜の畑のそばを散歩する。 |
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| 馬鈴薯の山が,不意に彼の行手をふさいでいた。彼は馬鈴薯についてあ |
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| まり興味がないから,雑草の中へ足を踏み込んで通り過ぎていく。彼は遠 |
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| 近のバンガロォ風の住宅の白い壁や,色とりどりの貯水タンクの鉄塔を, |
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| ふりかえったときに見る。それからまた煙草をくわえて歩いていく。 |
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| 「人生とは何ぞや」そういう言葉の側を,苦笑して通り過ぎるすべての人 |
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| 物のように,彼もまたすべてが無意味だった。 |
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| しかし習慣がいつの間にか彼の散歩の道すじをきめてしまった。彼は昨日 |
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| も一昨日も同じ時刻に同じ場所を通って帰ってきたことを思い出す。否もう |
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| 2カ月というものは電気仕掛のペデストリヤンそのままなんだ。彼はそして必 |
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| ずその場所にくるとポォの「ランダァ屋敷」を思い出し,木犀のある長い石垣 |
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| の処ではホフマンの「スキュデリ嬢」をちよっと思う。それから国道でルッソォ |
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| の絵とヴァイオリンのことを考える。それから坂を下りながら右手に見えてく |
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| る耕地整地の記念碑にアクロポリスとオベリスクとクライスラァ・ビルを殆ど |
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| 同時に思い出すのだ。彼はそうした理由のない制限に対して理由のない反 |
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| 抗を開始する。彼は意味ない廻り道や凸凹の廃道の方へ突進する。そして |
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| 茨や草の実に悩みながら,全く憂鬱になって白菜の畑の中へ飛び出してし |
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| まうことになる。しかしそれはあまり永続きがしない。第一彼のズボンと肉体 |
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| が悲鳴をあげるからだ。そしてやがていつかは,彼はまた以前の道を選ぶ。 |
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| 最初の習慣のように同じ時刻に小さな石橋を渡り,そこで女郎草の叢にサッ |
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| とステッキをお見舞する。それから白菜の畑を過ぎて国道に出る。国道を5 |
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| 分間ほどいくと右に折れる小さな坂道がある。そこから樅の林の裏側に出 |
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| る。八幡太郎義家の社の下を通って玄関に到着する。これが彼の散歩のコ |
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| ォスなのだ。この知りつくした道すじが彼の視覚を開放するのだった。彼は |
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| ステッキを握り,白い柵を越してある住宅の庭の美しい芝生と芝生の上のブ |
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| ランコ台を見ていく。秋の薔薇がもう跡形もなく過ぎてしまったことを他の家 |
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| の生籬に感じる。それからマンドリンの鳴る家のすじ向いのピアノ。そしてそ |
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| れらの近代的な生活圏を通り過ぎると石橋がくる。やや遠方の小松林。小 |
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| 松林の上の巻雲。彼はステッキを上げて女郎花の叢を叩きつける。白菜の |
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| 林の方へ曲るのだ。白菜の長い行列が終るあたりにくると,もうあたりの情 |
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| 景は全く寂寥としている。彼はトマトや石塊が転々としている耕作道路の上 |
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| に鋭くめりこんだ野菜車の轍を興味もなく見つつ歩いていくのだ。黒い道路 |
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| の上のトマトや石塊の長い長い投影。それらのほのかなハイライト。雑木林 |
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| の下の薄暗い坂道。その上に茂っている雑草が微風にひえびえとなびいて |
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| いる。そこから灰色に光る沼が見える。水門が鳴っている。貝殻をかぞえる |
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| ような蟲の鳴き声。そして竹薮が空の方でざわめいているのだった。彼は煙 |
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| 草がにがくなってくる。水門の上を渡って,切り開いた坂を登る。それは全く |
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| 草土社風の道だ。坂を登りきると,また一群のバンガロォ風の住宅がある。 |
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| 酒屋のギャルソンたちが丘から丘へ,自転車のタイヤァのリボンで,日に幾 |
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| 度となくこれらの建築をチョコレェトのようにつなぐのだ。テニスコォトをめぐ |
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| るコスモスの層雲。棕櫚の林にはもう夜が匂っている。彼はそこで国道に出 |
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| る。5分間は砂煙のあがる不愉快な道だ。彼はまた雑草で一杯になった小 |
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| さな道へ降りていく。樅の林は黒い塊でしかなくなっている。振り返ると丘の |
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| 上に星が光っている。彼はステッキを振ってスピィドを加える。肥料の匂い |
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| が哀しく伝わってくる。彼は意味なく顔をあげる。しかしそれだけなのだ。彼 |
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| は彼の才能で観察し,考えることの可能なものは何一つのこすことなく観察 |
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| し考えつくしてしまったのだ。彼は顔をあげ,そして暗くなった木立や遠景を |
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| ひとわたり見ると頭をさげた。彼は歩いていく。すべての,なすべき事をなし |
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| 終って希臘を出ていく希臘人のように。 |
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| だがそれはほんの瞬間だった。彼は驚いたのだ。彼は樅の林の中をすか |
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| して見る。そして何ものかに命令するような口調で叫んだ。 |
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| 「誰です,出て来たまえ!」 |
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| すると樅の林の中から女の声が答えた。そして彼の前に1人の女が立って |
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| いた。 |
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| 「あなたはどなた? びっくりしましたわ私」 |
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| 彼は自分の前に立った女の美しい容貌と繊細な頸を温めている毛皮の柔 |
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| 軟な感触とブラウンの衣裳を見た |
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| 「僕の方がびっくりしますよ。どうなさったのですか」 |
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| 彼は自分の驚きを隠すために,先刻の命令的な口調のままで言った。そ |
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| れは彼の前に立っている美しい婦人と奇妙な調和だった。しかし毛皮の婦 |
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| 人は,彼の乱暴な口調と彼の滑稽な様子とを比較して,かえって彼を信用 |
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| さえしているのだった。 |
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| 「あたくし誰かと思って隠れましたのよ。こんなに暗いから怖しかったので |
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| すわ。でも,ほんとうにあなたでよかったわ。ええ,そうよ,もしかと思って」 |
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| 「もしかと思って? じゃ僕は誰かに似ていたんだ」 |
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| 「いいえ」 |
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| 「じゃ僕を何か,悪漢だと思ったんでしょう」 |
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| 「馬鹿ねあたくし,ほんとうにそう思ったのかもしれませんわね。それであ |
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| なたが通り過ぎてしまわれるまで隠れてたのですわ」 |
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| 「あんな隠れかたじゃ,悪漢はすぐに見つけるでしよう」 |
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| 「いいえ。そんな方でないことが直ぐわかったのですわ。でも出るわけに |
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| いかないから待っていたのです。びっくりなさるといけないと思って」 |
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| 彼は女との会話に思わず苦笑した。 |
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| 「で,どこまでお帰りになるのです?」 |
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| 「あそこ,あの丘の上のポプラァの樹のある家ですわ」 |
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| 彼は丘の上の一群の住宅とポプラァの梢を見た。それは星の光った空に |
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| かすかなシルエットとなって滲んでいた。 |
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| 「あ,僕はさっきあの下を歩いてきたんです」 |
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| 彼は彼の胸と殆ど触れあうほどの距離にある女の胸を見た。女の美しい |
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| 歯と微笑を見た。彼はいきなり女の肩の上に手を伸ばして唇に唇を持って |
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| いった。それはほんの瞬間だった。彼女は彼の腕の中で,しだいに抵抗す |
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| ることの不利を悟った。それに自分の意志からでなく触れた他人の皮膚の |
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| 感覚が一体なんだろう。彼女は彼の腕から静かに逃れたとき彼に言った。 |
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| 「ずいぶんひどい方ね」 彼はこの女は憤るといっそう美しいと思った。 |
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| 「僕はそう思いません。僕は少し正直すぎただけですよ」 |
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| 「まあ図図しい方」 |
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| 「何故です。僕は貴女のような美しい婦人に逢ったのは,ほんとうに今が |
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| 最初だったからです。僕があなたのような綺麗な婦人にこれから先逢える |
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| かどうかわかりません。僕はそれが怖しかったのです。僕はもうあなたに恋 |
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| しているのかもしれないのです。さ,僕を打ってください。僕は無礼を働いた |
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| 野蛮人なのです。・・・・・・・・・僕はあなたのその涙が憎悪と侮蔑の涙でしか |
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| ないことがよく解るのです。僕の頬を打ってください。僕は何もしません。僕 |
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| は打たれたらまっすぐに僕の家に歩いていきますよ。なぜ打ってくださらな |
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| いんですか」 |
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| 「いいえ,あたくし打ちませんの,だってあなたは悪い方じゃないらしいの |
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| ですもの,おあやまりになったんですから・・・・・・・・・」 |
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| 「それは,それだけの罪を犯したからです。だのにあなたはそれを罰しな |
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| いんですね」 |
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| 「罰しませんわ,そのかわりもしか,あたくしの家の近くまで送って頂けま |
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| せん? 恐しいのですもの」 |
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| 彼はあらためて女を見た。そして彼女の意外な言葉の真意を疑った。そ |
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| れはよくあることだった。多分この女は頬打ちよりもいっそう苛酷な方法で |
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| 罰するに違いないのだ,と彼は考えた。それが土佐犬の牙の兇暴な一撃で |
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| あってもしかたはない。彼はすっかり諦めて,女と並んで歩き始める。彼の |
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| 想像は大体において女の計画と合致していた。牙の一撃が彼女の高い一 |
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| 声に変ればよかったのだった。彼女の家に隣りあっている警部は彼の冒険 |
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| に最も合法的な制裁を与える筈だったからだ。雑木林の下を歩きながら, |
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| 彼は礼儀正しかった。彼らは,坂道を静かに登っていく。彼女は彼女の仕 |
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| 事について話した。彼女はある服装学院の講師だった。話が香水に移ると |
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| 彼はいつか読んだ香水の創始者であるイタリィの貴婦人についての詳細な |
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| 記憶に自分ながら驚くのだった。彼女はコティの香水のラフなこと,ウビガ |
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| ンはそれに比較して緻密だが趣きのないこと,けっきょくピベだのスイスの |
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| ジモダンのような小さな会社にびっくりするような製品があること,バッキン |
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| ガム宮殿香水やユゼニィ皇后香水の壮麗な薫について彼女は驚くばかり |
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| の精巧な形容を知っているのだった。 |
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| 「そうですの,いまにほんとうの香料を使った香水なんてなくなりました。そ |
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| して白檀でも麝香でもないケミカルな匂いばかりが残るのですわね。ドルセ |
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| の新製品なんかみると,ぞっとするほどですわ」 |
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| 「何だってみんなそうなのですよ。小説も詩も絵も音楽もなにもかも。ほん |
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| とうに何もかもですね」 |
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| 坂を登りきると国道に出る。彼女は彼を呼び止めた。彼女はもうさっきの |
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| 計画を放棄していた。彼女は青年にある親しみさえも感じているのだった。 |
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| そして気障な,卑怯な態度のように考えられた樅の林の側での青年の後悔 |
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| が,真実に彼のパッションに対して彼のデリカシィがする絶望的なプライド |
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| であったことが彼女にははっきりと解ったのだった。 |
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| 「お帰りになってくださいません。そして今日のことはすっかりお忘れになっ |
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| てくださいましな。そして思い出さないでくださいませ。それがあなたのなすっ |
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| たことに対する罰ですわ」 |
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| 彼は彼の想像がかなり近いものであったこと,そしてその刑罰から赦され |
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| たことをひそかに理解した。彼は帽子をとると,親しみをこめて言った。 |
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| 「僕は家に帰ったら,この調子の狂った頭へ1発やるつもりなんです。僕は |
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| 僕を軽蔑するよりかその方が楽なんです」 |
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| 彼は方向をかえると,振り向くこともなしに雑草の上を下りて行く。何かし |
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| ら不快な気持ちが胸先にこみあげてきた。彼は突然に起った内臓の激痛の |
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| なかで,口一杯にあふれ出る不消化のままの鰯とホォレン草と苦い液体を |
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| 吐瀉しながら,雑木林の中ににぶく反響する梟の声をきいて,いつまでも坂 |
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| のなかほどの雑草の上に逆さになっていた。 |